webの気象庁天気予報には、日本中の地震情報が時系列で確認できるページがあり、それを職場でチェックしていた私は、1週間くらい前から宮城県で頻繁に揺れが発生していたことを知っていたのです。
ちょっと大きな揺れになりそうだったので、職場のスチール机の下に潜り込みました。
窮屈な体勢で目をやった窓の外に、鳥の群れがバーッと飛んで行くのが見えました。これはまずい、と直感的に感じました。
大きな揺れが、止まらない。
スチール机の下で上下左右に体が振られる。
社内には悲鳴が響きました。
頭上にあった神棚が台ごと、目の前に落ちてきました。
数分経ってもまた揺れが来ます。大きな地震は1度では揺れが収まらない。初めて余震というものを知りました。
家に帰りたくても、車に乗り込むと余震で大きく車体が揺れ、怖くてエンジンが掛けられない。
やっとの思いで車を発進させると、道路の信号が消えている。停電してしまっていたのです。
その時驚いたのは、そんな中でも道を譲り合うドライバー達。大きな交差点では、片側が5分ほど走ると、待っているもう片側が少しずつ前に出る。それを察知して、流れていた側の車が停止し、反対側が走り出す。
みんな気持ちは一緒。安全に、大切な人が待つ場所へ帰りたい。
不思議と一体感のようなものを感じました。
それでも停車している間も揺れは続き、車が横倒しになるのではないかと生きた心地がしませんでした。
いつもの通い慣れた通勤路は、ことごとく家の塀が崩れ落ち、歩道を塞いでいます。
「○○小学校、生徒全員帰宅させています。△△小学校、全員無事です…」
ラジオからは学校の安否情報が流れてきます。
子供達は怖い思いをして身を寄せあっているのだろうな…不安で泣き出しそうになりながら、ハンドルを握っていました。
当時小学1年生だった娘は、いつも下校前に教室を出るのは最後の方なのだけれど、あの日あの時間には、なぜか真っ先に教室を出て校庭で遊んでいたそうです。
不思議なことがあるものです。
余震が収まるまで校舎の中で待機する子供達に、先生は言ってくれたそうです。
「先生は死んでもあなた達を守ります」と。
片道1時間の職場から倍の時間をかけて家にたどり着きました。
娘は無事に帰宅しており、保育園にいた息子も主人が迎えを済ませてくれていました。
そして、大きな津波が起こっていることを知りました。
電力不足からの計画停電。
蝋燭の明かりでの晩御飯。
外へ出ると、街灯も家々も光ひとつ点いていない。こんなに真っ暗な夜は2度と見ることはないだろうなと思うくらいの闇。
空にはライトを光らせながら、バタバタと音を響かせ、自衛隊の輸送ヘリが次々に北へ向かって飛んで行く。
静まり返った私の町の上を、どんな想いで飛んでいるんだろう。
この空のずっと北では、想像もできない風景が広がっている。
輸送ヘリを見送ったあの何とも言えない気持ちは、今も忘れることができません。
県内の風評被害、そして実際に放射性物質で汚染された腐葉土が販売されてしまった事実。
山菜採りも魚釣りも自粛要請が出ていました。
私に起きた出来事、東北で起きたこと。
忘れようとは思っていません。
"語り継ぐ義務"とかそんな大層なことではなく、起こった現実の中に、あの時私はいたということ。
東北の悲しみと、原発に怯える日本と世界中からの励まし。その時私はそこに存在していた。
それを、私は忘れない。